歯科裁判事例【8】

Case8.
移植骨の採取による下歯槽神経損傷

【事件番号】

東京地判平成26年8月21日
平成22年(ワ)第33860号 
医療費請求本訴事件
平成24年(ワ)第36365号 
損害賠償請求反訴事件
(判例タイムズ1415号掲載)

【事案の概要】

本件は、病院が患者に対して未払いのインプラント治療費の支払いを求める訴えを提起したところ、患者が、右下顎枝から移植骨を採取してサイナスリフトを行った後、右オトガイ部にしびれ等が残り、後医で下歯槽神経麻痺と診断されていたことから、骨採取の際にトレフィンバーによって下歯槽神経を損傷した注意義務違反や,下歯槽神経麻痺が生ずる危険性や代替的方法について説明しなかった説明義務違反があるなどと主張して,病院に対し,本件契約の債務不履行又は不法行為に基づき,損害賠償の支払いを求める反訴を提起したという事案です。

【争点】

  1.  移植骨を採取するにあたっての手技上の注意義務違反の有無
  2.  リスク及び代替的方法に関する説明義務違反の有無

【判旨】

本訴請求一部認容 
20万3538円(請求金額 451万6050円)

反訴請求棄却 
(請求金額 942万4268円 うち431万2512円の損害賠償請求権を認めた上で、その全額を治療費と相殺)

⑴ 争点1.について

まず、本判決は、下歯槽神経がなぜ損傷したか、という点について、CT写真によればトレフィンバーによる切削が行われた位置の近くに下顎管に通じる欠損があったこと、下顎管に通じる欠損は骨吸収によるものであるとする病院側の主張は信用できず、この欠損が生じた原因はトレフィンバーによる切削以外に考えらえないこと、被告が6年以上にわたって訴えていた右オトガイ部の知覚障害は下歯槽神経損傷によって生じる症状であること、後医が下歯槽神経麻痺と診断していることなどから、トレフィンバーが下顎管まで到達してしまった結果、下歯槽神経を損傷したと認定しました。

その上で、本判決は、医学文献で、下顎枝から移植骨を採取する際には下歯槽神経の損傷に注意し、下顎管から十分な距離を確保する必要があること及びトレフィンバーは切削能力が高く、下顎舌側皮質骨を貫通する危険性があることが指摘されていること、下歯槽神経を損傷すると患者の日常生活に多大な支障が生ずること,並びに担当医が術前に撮影されたCT写真によって下顎枝における下顎管の位置関係を把握していたことからすれば、担当医は、骨採取を行う際,術前に下顎管の位置関係を念頭に置き,トレフィンバーを挿入する位置,方向及び深度等を調節して,トレフィンバーが下顎管まで到達しないよう慎重に操作すべき注意義務を負っていたが、担当医はこれに違反したと認定しました。

⑵ 争点2.について

本判決は、説明義務違反については、担当医が下歯槽神経麻痺が生ずる危険性について説明したと認定するとともに、患者側が挙げる代替的方法については,いずれも説明すべき義務が認められないと判示して、患者側の主張を退けました。

⑶ 相殺について

本判決は、患者の病院に対する損害賠償請求権を認めましたが、一方で、もともと病院が患者に対して未払い治療費の請求をしていたことから、両者を相殺し、残った未払い治療費の限度で、病院の請求を一部認容しました。

本件のポイント

⑴ 手技上の注意義務違反について

医療訴訟においては、過失、損害、因果関係の3つが立証されなければ、患者の請求は認容されません。そして、これらの立証責任は患者側にあります。すなわち、過失を例にとると、過失を基礎づける事実が真偽不明である場合、患者は、過失が認定されないことによって敗訴してしまいます。そのため、患者は過失を基礎づける事実を、通常人が疑いを差し挟まない程度(8割方真実であろうという程度)まで立証しなければなりません。

この点、立証が特に難しいのは、手技上の注意義務違反であると言われています。これは、限られた証拠から過去に行われた手技の具体的態様を確定した上で、医学文献等に照らして担当医が負っていた注意義務を特定しなければならないからです。

本件でも、担当医が下顎枝から移植骨を採取する際に何が起こったのかという点を立証するのは困難となるはずでした。しかしながら、患者にとっては幸いなことに、後医が撮ったCTにトレフィンバーによる切削が行われた位置の近くに下顎管に通じる欠損が写っていたため、担当医が行った手技の具体的態様が明らかとなりました。インプラントに関する訴訟では、画像データが勝敗を分けることの好例であるといえます。

⑵ 医療過誤と治療費の関係について

本件では、医療過誤に基づく損害賠償が認められているにもかかわらず、未払い治療費もそのまま認められており、結果的に相殺されてしまっています。この点は世間一般の感覚からすれば、奇異に思われるかもしれません。

しかし、医療は請負と異なり、結果を保証するものではありません。そのため、治療費は治療を行うこと自体の対価であるとされており、したがって期待した結果が実現されなかったとしても、原則として債務不履行になることはなく、患者は治療費を支払わなければなりません。そして、裁判所は、治療の必要性や緊急性がある事案については、たとえ医療過誤があった場合でも、上記の結論は変わらないと考えているようです。

もっとも、裁判所は、治療の必要性や緊急性に乏しく、また、医療側も患者側も一定の結果が実現することを前提に診療契約を締結しているような請負的要素の強い類型の治療がなされた場合には、医療過誤が認められるときは、もとの治療費を損害に含めることがあります。これは、行われた治療が患者にとって全くの無価値であった場合には、医療側が治療の対価を受け取るのは不合理である、との価値判断に基づきます。そして、インプラント治療は上記の類型に当てはまります。そのため、インプラント治療においては、明らかな医療過誤であるときは、治療費を返還しなければならない可能性が高いと考えておいた方がよさそうです。

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