歯科裁判事例【9】

Case9.
インプラントによる下歯槽神経損傷

【事件番号】

名古屋地判平成15年7月11日
平成11年(ワ)第3969号 
損害賠償請求事件
(判例時報1852号掲載)

【事案の概要】

本件は,下顎の左右6番及び7番にブレードベントインプラントを埋入したが、動揺が認められたために約1か月後に撤去し、再度埋入手術を行ったところ、左側下唇及びオトガイに麻痺感が残存したことから、患者がクリニックに対し、インプラント埋入時に下歯槽神経が通っている下顎管上壁を圧迫又は穿孔させたなどの手技上の注意義務違反があったとして、後遺障害慰謝料等の損害賠償の支払いを求めた事案です。

【争点】

  1.  インプラント体を埋入するにあたって下顎管上壁を圧迫又は穿孔させた手技上の注意義務違反の有無

など

【判旨】

一部認容 
674万2957円(請求金額 6945万9230円)

⑴ 手術と神経損傷との間の因果関係について

本判決は、下顎にインプラントを埋入するにあたっては下顎管の神経の走行状況から神経麻痺が発生する可能性があり、インプラント挿入後に出現する神経麻痺は,そのほとんどが下顎管中の下歯槽神経又はオトガイ神経の障害に起因するものと考えられていること、患者が知覚麻痺を初めて認識したのが手術後に麻酔が切れてすぐであったこと,行われた手術が既に切削された部位をさらに切削するという内容のものであったこと,患者が手術時に追加麻酔を要する程の急激な痛みを感じたこと,その際,出血量が急激に増大したような事情は窺えないこと,知覚麻痺の範囲と程度が、左側下唇及びオトガイ部分約3.5センチメートル四方の感覚が右に比べてかなり鈍く,圧覚があるが2点分別は可能という程度であったこと、左下顎に挿入されたインプラントの遠心側の部分が下顎管と交通している所見がみられ,これが現在の知覚麻痺の原因となっていると考えられることを総合的に考慮すると、骨溝を下顎管付近まで切削し,下顎管に近接した位置にインプラントを打ち込んだため,インプラントによって下顎管内が圧迫され,下顎管中を走行している下歯槽神経が麻痺したことによって神経損傷が生じたものと推認できる、としました。

この点、クリニック側は、後医で撮影した断層写真では,下顎管とインプラントとの間には隙間があり,下顎管を圧迫している所見はみられないので、インプラントによって下顎管を圧迫したという手技上の注意義務違反はなかったと反論しました。

これに対して、本判決は、鑑定人が当該断層写真についてインプラントの一部が下顎管と交通しているような所見がみられる旨指摘していること、当該断層写真は6番部とオトガイ孔を断層面として撮影されたもので,より遠心側に位置するインプラントの部分はぼやけていて断層撮影の目的断面から外れていると思われること、さらに、もともとインプラント打ち込みによる下顎管内の圧迫は,手術直後のCT撮影で分かるかどうかといった程度で,視覚的に認識するのは困難であることから、当該写真はインプラント打ち込みによる下顎管圧迫を直ちに否定することはできないと判示しました。

⑵ 過失の有無について

本判決は、一般的に、インプラント挿入後に出現する神経麻痺は,そのほとんどが下顎管中の下歯槽神経又はオトガイ神経の障害に起因するものと考えられているため,術前にはX線撮影を行ってオトガイ孔の位置や下顎管までの距離を測定し,慎重に切削を進めると共に,最終的に固定する前の段階においてインプラントを挿入した状態で当該部位のX線撮影を行い,下顎管やオトガイ孔との距離を確認する必要があること、本件では実際に下顎管の圧迫によって神経損傷が生じたこと、さらには再手術であったことから、担当医には、骨溝作成の際には下顎管を穿孔,圧迫しないよう慎重に切削を進め,原告が痛みを訴えた際には不十分な麻酔効果によるものか,切削が下顎管近くに及んだことの徴表なのかをX線撮影を行って確認し,下顎管内を圧迫しない位置にインプラントを挿入すべき注意義務があったと認定しました。その上で、本判決は、担当医がこの注意義務に違反し、下顎管付近まで切削し,患者からの痛みの訴えに対してもX線撮影による確認作業を行うことなく漫然と追加麻酔を施して手術を続行し,下顎管に接近した位置にインプラントを打ち込んで下顎管内の圧迫による下歯槽神経麻痺を招来し,知覚麻痺を出現させた点に過失があると認定しました。

本件のポイント

⑴ 画像証拠の重要性について

一般に、手技上の注意義務違反を立証するのは難しいと言われています。これは、限られた証拠から過去に行われた手技の具体的態様を確定した上で、医学文献等に照らして担当医が負っていた注意義務を特定しなければならないからです。本件でも、患者はインプラントによって下顎管を圧迫したという注意義務違反に加えて、麻酔針で神経を直接損傷したという注意義務違反も選択的に主張しており(判決はこの主張については退けています。)、立証が難しい事件であったことが窺われます。

裁判所は、下顎にインプラントを埋入した後に出現する神経麻痺はほとんどがオトガイ神経又は下歯槽神経の損傷であるところ、患者が痛みを訴えた態様と症状からすれば、下顎管の圧迫が原因である可能性が高い、との心証を抱いたのではないかと思われます。もっとも、それだけで因果関係を認定できたかどうかは疑わしいといえます。

本判決は、後医によって撮影された断層写真の評価について、インプラントの遠心側の部分が下顎管と交通しているとの鑑定人の意見を採り上げています。一方で、本判決は、下顎管とインプラントとの間には隙間があり,下顎管を圧迫している所見はみられないとの被告の主張を丁寧な論旨によって退けています。このことから、実際には画像の評価が勝敗を分けたのではないかと考えられます。

たしかに、本判決が述べるように、インプラント打ち込みによる下顎管内の圧迫は,手術直後のCT撮影で分かるかどうかといった程度で,視覚的に認識するのは困難であるのかもしれません。しかし、インプラントに関する医療過誤訴訟では、画像の他に決定的な証拠を見出し難いのも事実です。そうすると、下顎の神経損傷の事案でも、紛争になった場合に備えて、やはり画像を残しておくことが重要であるといえそうです。

⑵ リスク回避の姿勢について

本判決は、下顎管の位置関係を把握せずに慎重に切削しなかったことをもって、直ちに過失を認定したわけではありません。あくまで、「原告からの痛みの訴えに対してもX線撮影による確認作業を行うことなく漫然と追加麻酔を施して手術を続行し」たという態様も加わって、過失が認められています。患者が激しい痛みを訴えた時点ですぐに手術を中止していれば、神経損傷の結果が生じたとしても、場合によっては過失が認められなかったかもしれません。

インプラント治療には常に重大事故に繋がるリスクが内在しています。そうである以上、担当医には、事故につながる危険な兆候が少しでもあれば、いったん手術を中断して、その原因を確認するという慎重な姿勢が求められるといえそうです。

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